親になれざりしに・・・

懐かしCMをのせてみる。

もうひとつだけでなく、万華鏡のようにたくさんの面を持つことができたら・・・寂しい人生なんてつぶやく暇もなく、忙しくしていることだろう。

どこから見ても、親になるイメージが持てないひと、というと偏見になるけれど。

「○○ちゃん、養子にもらえないだろうか?」なんて、晩年にはつぶやいていたそうな。

辛口スイス

トランプ氏が大統領に就任してから時が経った。

カナダに住む友人は、彼の国から一気にひとがなだれ込んでくるのでは?と危惧していたが・・・

ところで彼が大統領になった直前直後から、いろいろオモロイ動画がアップされてきた。これもそのひとつ。

24年前、この国を訪れたとき、食べ物はいまひとつだが、景色の素晴らしさに脱帽した。機会があればもう一度と思ったこともあるが、あれ以上の景観にもう一度出会える可能性は薄そうだから。(それでなくても、温暖化が進んでいる様子)

観光客にはフレンドリーだが、国民には案外・・・なスイス?

戸惑い

世間からレッテルを貼られることがある。

「かわいそう」とか「あのひと負け組」(やや古くなってきたかな?)とか、 あれこれ言われて、からだじゅうにたくさんのレッテル貼られても、それらをカンタンに剥がし、平然としていられる自信が今のわたしにはあるのだが・・・(こういうことを言うと嫌われるよね、きっと)

「子供がいない」という共通点のあるひとたちにも、こんなレッテルを貼られることがある。

「あなたも同じようにレッテル貼られているんだよね」
「苦しくてホント、つらいよね」
「腹が立つよね」
「でもどうしようもないんだよね」
「どうしたらいいんだろうね」

「いえ、わたしこんなレッテル気にならないんですよ~」
「バリバリバリ(レッテル剥がす音)ほ~ら、すぐ剥がせるし♪」

明るくその場で剥がすのに 戸惑いやためらいを感じてしまうわたしである。

見ればそのひとたち、レッテルをからだじゅうに貼りつけている。ひとに貼られたモノもあるが、よ~く見ると「それって自分で貼ったのでは?」というモノもたくさん。

からだじゅうにレッテル、 呼吸できないほど貼りつけたひとを見かけると剥がしてあげたいなと思う。
剥がしたらどうでしょ、剥がれますよと声をかけてあげようかとも思う。

でも・・・きっと大きなお世話だよね。

世間からレッテルを貼られても、自分で剥がせるようになったけれど。共通点があるひとたちからレッテルを貼られると、どう反応すればいいのだろうと、たまに戸惑うことがある。

Book & Bed

なかなか取れない京都のお宿。
ひとり旅なら泊まってみたいこんな宿。

http://bookandbedtokyo.com/kyoto/

昼間に目いっぱい歩き回って、京料理に舌鼓を打ち、美味しいお酒も賞味。それからお宿に戻ったら、本も読まずに爆睡しそうですが・・・

いつものように早起きしてゆったり読書する。
そんな時間を持ちたいものです。

普通というコトバ

コトバってむずかしい。何気なく口にしたコトバで傷ついたり、傷つけられたりする。だからといって口をずっと閉じているわけにはいかない。「傷つかない、傷つけない人生などない」と思うしかない。

「普通」というコトバをなるべく使わない(口にしない)ようにしている。「~ということもある」「~ということも多い」と頭の中で変換する。「普通の人生」の代わりに、「平々凡々な人生」と言うことがほとんどだ。

http://newsphere.jp/politics/20170522-2/

FBでこんな記事が流れてきた。

「普通」の対義語は、希少、特別、そして異常が挙げられるだろう。「普通じゃない」イコール「異常」か。
ちなみに「平凡」の対義語は、卓抜、非凡、異色。「平凡じゃない」イコール「抜きん出ている」か。

「平凡」のほうが柔らかめの表現に思える。辞書をひいて対義語を確認し、「普通より平凡を使おう」と決心した・・・というわけでなく、なんとなく使い出したわけだが。

「平凡」を使ったほうが、傷ついたり傷つけたりが少ないような気がする。 「わたしは平々凡々の人生を生きてます」 うんうん、気持ち的にラクだ。

「普通」ってコトバ的にちょっとキツくて強い。大多数の意味に近い。 「普通じゃない」もコトバ的にキツくて強い。マイノリティだと責められるような気がする。

「普通」の基準は、だれがどう決めるのだろう。 決めるひとの基準は果たしてどんなものなのだろう。

「普通」というコトバ、極力使わない(口にしない)でいきたい。

「あなたは普通じゃない」
「普通でないということにどう感じるか」
「なぜ普通じゃないのか」

たとえひとからこう言われることがあっても。